イザヤは、ウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の時代に活躍した預言者(1:1)今日の箇所は、ウジヤ王が死んだ年の出来事。
1.再召命
イザヤが神殿で主を見た。セラフィムという天使達が「聖なる聖なる聖なる万軍の主」と叫んでいる。神殿は煙で満たされた。敷居の基はゆらいだ。体で振動を感じ、目でも耳でも匂いでも主を感じた。
イザヤは「自分は死んでしまう」と考えた。悪人と一緒にいると自分はまだましな人だなと思う。善人と一緒にいると自分は汚い人間だなと思う。イザヤが見たのは聖なる聖なる聖なる万軍の主。その全地に満ちて輝く主の栄光を見たイザヤは、自分の汚れを思わずにはいられなかった。圧倒的な主の聖さの前に自分は死んでしまうと思った。
セラフィムの一人が飛んできて祭壇の上の炭をイザヤの唇に当てた。イザヤが唇の汚れた者と言ったので唇に。祭壇は罪を取り除く動物の生贄が捧げられるところ。キリストの贖いによって私達の唇は聖められて神の言葉を話すようになる。
誰を遣わそうと主が言われるので、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」とイザヤが答えた。唇が聖められたので、預言者として立つことができる。これはイザヤの再召命。もともと預言者だったが、神を見て、自分の汚れを再確認し、完全な聖めも体験して預言者としての働きを行うと再び決心した。
素直にすぐ従うことは重要。アブラハムはイサクを捧げる試練の時「はい、ここにおります。」創世記22:1と答えた。サムエルは「お話ください。しもべは聞いております。」マリヤは「お言葉通りこの身になりますように。」ダマスコのアナニアは「主よ、ここにおります。」と答えた。
2.悟らない者、悟る者
人々の前に神の言葉を届けよとするイザヤに、主は理解に苦しむことを言われた。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。立ち返って癒やされることがないように。」預言者として神の言葉を告げに行くのに、聞く人が悟ることはない。だったら何のためにいくのか。楽しくない務め。
それでイザヤは「いつまでですか?」と尋ねる。数ヶ月か数年と思っていただろう。しかし主の答えは国が滅びて、民がアッシリアとバビロンに連れて行かれる時まで。これはイザヤの死後に起こること。自分が生きているうちには民の悔い改めを見ることができない。でも語り続けるように言われた。
しかし大きな希望が約束されている。13節。残りの者。すべてなくなるが、聖なる裔が起こされる。ダニエルや3人の青年、モルデカイやエステル、エズラやネヘミヤのような人たちが起こされた。
この残りの者たちは目が開かれて見るようになる。29:18,32:2-4,35:5,42:7これらのみことばは、キリストによって成就した。レムナントがキリストとつながった。聞き入れる人がいなくても、イザヤは語り続け、キリストが永遠の時刻表の中で確かに語られた。100年の答え、1000年の答え、永遠の答えを受けた。
3.私達の宣教現場
今日の話は、この当時のイスラエルの状況だけではない。私達の現場にも当てはまる。6-9節の語るのに悟らないという聖句は4つの福音書と使徒の働き、ローマ人への手紙の計6箇所で引用されている(マタイ13:14-15,マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40、使徒28:26-27、ローマ11:8)。それだけ大事だということ。イエス様を見ても信じない、イエス様の話を聞いても信じない人のことを言っている。このように見てみると、聞くけれども悟らないというのは、宣教現場の常識と言ってもいい。
では、宣教現場は、語るけれども悟らないものかといったらそうでもない。ヨナの宣教ではニネベ中が悔い改めた。初代教会には3千人の弟子、5千人の弟子が与えられた。エペソではすべての人が福音を聞いて偶像文化が衰退した。
では、上手に語れば信じるか、霊的状態が良ければ信じるかと言うとそういうわけでもない。下手くそに語っても信じる人はいるし、最高に上手に語っても信じない時は信じない。イエス様やパウロが語ってもイエス様やパウロを憎む人たちがいた。イエス様の伝道が下手だったから?信仰や霊的状態が足りなかったから?違う。「聞き続けよ。だが悟るな」という状況だった。
多くの人が信じる現場と時刻表があり、多くの人が受け入れない現場と時刻表もある。だから時が良くても悪くても語り続ける。語り続けて信じる人が出てこなくても、がっかりしない。相手が受け入れても受け入れなくてもキリストが宣言される。そして、レムナントが起こされる。
結論
・「ここに私がおります。わたしをお遣わしください。」と告白しよう。
・みことばに基づいて宣教現場を見る。聞き続けよ、だが悟るなという現場と時刻表もある。3000人の弟子が起こされる現場と時刻表もある。どちらの現場も重要な意味ある現場。そして、レムナントの希望がある。
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