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2021年7月11日 日曜礼拝説教 イザヤ書7章10-17節(7章-8章)「インマヌエル」



 この箇所はインマヌエル預言として有名。イエス様が生まれる時、ヨセフに御使いが現れてマリヤが聖霊によって身ごもったことを告げたが、マタイ1:23でこのイザヤ書7:14が引用されている。イエス様の別名はインマヌエルであって、イエス様によって与えられる恵みは神が私達と共におられるということ。

 ・神から離れた人間に神が共にいてくださることが救い。

 ・神が共にいてくださるので、あらゆる敵、あらゆる呪い、災いから守られる。

 ・神が共にいてくださるので、神様の力で神様の働きを行うことができる。

だからインマヌルは私達の救い、喜び、祝福、新しい人生、ミッションの核心となるもの。

というわけで、インマヌエルと呼ばれる男の子というのは、本質的にはマリヤによって生まれたイエス・キリストのことだが、預言はいろいろな時代についてのことが同時に言われていることが多い。このイザヤの時代のインマヌエルとはなんなのか。7章8章の本文をみてみる。


 ヨタムの子、アハズの時代。前回の6章はヨタムの時代だったがあれからまた何年も経っている。アハズ王は偶像崇拝をする悪い王様で異教の習慣を取り入れ、自分の子供に火の中をくぐらせるようなことをした。また、アラムの首都ダマスコの祭壇を見て感銘を受け、その図面と模型を持ってきて、エルサレム神殿の祭壇を異教風に作り変えたりした。なのですぐに滅ぼされても仕方ない王だったが、神様はユダ王国を守られた。ここに出てくる王達は全員悪だが、ダビデの故にユダ王国には神の守りがあった。実際、次のヒゼキヤ王によって信仰が回復する。また、もう少し後のヨシヤ王の時には宗教改革が行われる。ユダ王国が滅びるのはもう少し先だったので、アハズは悪い王だったが神様はユダを守られた。


 1節の状況はいろいろとややこしいが、まずイスラエルの民は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれていた。アッシリアが強くなっていく状況で、周辺の国は団結してアッシリヤに対抗しようとしたが、アハズ王はアッシリヤ側についた。それで、イスラエル王国とアラムが同盟を組んで南のユダを攻め込んできた。アハズ王は王宮や神殿から金銀を持ち出してアッシリヤにささげ、イスラエルとアラムから守ってもらう。ここでの神様のメッセージはアッシリヤに頼らずに私に頼れというもの。

 2節 不安で揺れ動いている状況。こういう時に間違った選択をする。困難な状況でも神様が私達と共におられるというインマヌエルを感じながら平安の中で正しい選択をするのが信仰者。


 4節 気を確かに持ち、恐れないように。彼らは木の燃えさしに過ぎない。心を弱らせてはならない。出エジプトの時、葦の海の前で主が「恐れてはならない。しっかり立って主の救いを見なさい。あなたがたは黙っていなさい。」出エジプト14:13-14と言われたのと同じ。

 アラムとイスラエルが征服しようとしているが7節、それは起こらない。それはありえない。9節、信じなければ堅く立つことはできない。

 それで、神様はアハズにそのことを信じさせるためにしるしを求めるようにいわれる。しかし、アハズは12節で「私は求めません。主を試みません。」と答えた。

 モーセはイスラエルの民のところに行く前に、杖と皮膚病のしるしをもらった。出エジプト4:8 ギデオンは恐れながらも羊の毛に露が降りるしるしを求めた。神様が「しるしを求めよ」とおっしゃるのだから印を求めれば良い。なのにアハズは求めなかった。確かに申命記6:16節に主を試みてはならないという言葉があるので、アハブはどこかで聞いていたのだろう。でもそもそもアハブは「主を試みてはならない」という水準ではなく最初から偶像崇拝者であり、主を信頼していないのだから、ここでアハブが言うべき言葉は、「あなたを求めます。印をください。」ということなのに全くずれていた。


 アハブがしるしを求めないので、7:14、アハブと関係なく、主みずからしるしを与られたのがインマヌエルと呼ばれる一人の男の子。乙女が身ごもり男の子が生まれるが、その子が大きくなるまでにイスラエルとアラムはアッシリアに征服されるだろう。実際、この数年後にイスラエルとアラムはアッシリアに征服された。


 ここで神様が用意されたしるしについて整理したい。


8:18で、イザヤが「わたしと私にくださった子たち」がしるしとなっていると言う。まずイザヤ自身がしるしであり、そしてイザヤの子どもたちがしるしだった。


 イザヤ本最初の子は、7:3に出てくるが、シェアル・ヤシュブ「残りのものが帰ってくる」という名前。その名のついた子を連れて行くこと自体がメッセージだった。

 次の子は8:1に出てくる。主は2番めの子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズと名付けるように言われた。その意味は「分捕りものはすばやく、獲物はさっと」。いいかえるとあっという間に滅ぼされるという名前。これもまたメッセージ。そして彼がお父さん、お母さんと言い出す前に、アラムとイスラエルが征服されると言われ、そのようになった。そのまま8節でインマヌエルよと呼びかけられているので、インマヌエルとはこの2番めの子のことだろう。インマヌエルよ、アッシリアがアラムとイスラエルだけでなく、ユダの地まで覆い尽くすと言われ、そのようになった。しかし、そのアッシリヤも結局バビロンに滅ぼされた。


 人の目から見ると色んな国が台頭し、敵を恐れたり頭を使って生き延びようと画策したりして動き回るが、歴史は主がその愛する者のために、また主のミッションを行うために動かしておられる。


 そこで主は言われる。

9 諸国の民よ。打ち砕かれよ

10 はかりごとをめぐらしても、それはやぶられる。計画してもそれは成らない。

 なぜなら神が私達と共におられるからだ。インマヌエルだからだ。神様の御心だけがなって、神が共におられるものだけが生き残るのだといわれる。

 それが、シェアル・ヤシュブ(残りのものは戻ってくる)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りものはすばやく)、インマヌエル(神は私達と共におられる)というメッセージだった。


 しかし、このメッセージをアハブもイスラエムの民も信じない。だから、騙されるな。神の言葉を聞け。多くの人がいうことを信じるな。という強烈なメッセージが、11節から語れている。


11 強い御手をもって捉えられ、この民の道にあゆまないように。

14-15節には、さまたげの石、つまづきの岩が出てくる。この岩とはキリストのこと。第一ペテロ2:8 キリストが現れた時にも、つまづく人も多かったが悟る人もいた。つまづいてインマヌエルを悟らなかったユダヤの国は紀元70年にローマ帝国に滅ぼされた。


 イザヤの時代も多くの人が聞くけど悟らないが、16節、私の弟子たち(残りの者)が残されている。インマヌエルは残りの者の上にある。


イザヤは17、18節で信仰告白をし、19-22節で悟らないもののことを嘆いている。


結論


インマヌエル 神は私達と共におられる。ただ共にいるのではなく、味方である、敵は滅びるという意味。

8:10 神が私達と共におられるので、国々のはかりごとはならない。

マヘル・シャラル・ハシュ・バズ  あっという間に滅びる。世のものは頼りにならない。

シェアル・ヤシュブ 残りのものは戻ってくる。


ローマ8:31主が味方なので諸国も恐れないし、悟らない者のことも恐れない。

7:7 それは起こらない。それはありえない。心配しない。

17-18 世の流れがどうであっても主に頼る。しるしとして立つ。



















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